心変わりから人生観を変えたい。

いつ、どの瞬間に人は変わっていけるのだろう

 

まず変わりたいと思っている事から変わり始めているのだと認識したいところ。

しかし、現在の生き方についてそれがどんなに悲惨で残酷であって、辛く悲しいものであったとしても、そこから幸福を求める事もまたストレスになるという事を理解した方が

心変わりへの対応、順応が出来るのでは無いかと思う。

 

そして、幸福について。何かを変えたい。

辛い現実を少しでも穏やかにしたいと思う時に、抽象的にもそれがまるで具体的であるかの様に、幸せになりたいとか、楽しく明るく過ごしたいと思うのが大半なのではないだろうか。

決して悪いことではなく、むしろ褒め称えられるべき思考である。そしてなにより、そう思っている事が心変わりなのだ。

 

そして、心変わりから行動が変わるまでの区間に起こりうる問題が様々であるからこそ、人は変わらずにいるのだ。

自分の心境が一つ、他者からの目線や言葉行動然り、社会の動きでも左右される。

これは現実として起こりうるものであるため、そこに左右される事を甘えだと批判する人の言葉すら、その人を左右しているのである。

背中を押していると自己催眠でもかけているのかと思わせる正当化したつもりの批判。

それは徳を生むのか…その事すら考えていないのである。しかし、そういった生き方が自然体である人ほど、客観的に見た場合何事もなくただ平凡に生きているのだ。

きっと、ネガな人は敵対視するだろう。

しかし、その気持ちの影にはああなれたら幸せだろうな。と皮肉を抜きにしても思うのではないだろうか。

 

つまりは、正直が表も裏も出せる人間になれば、自分は今より幸せになれると思っているのが、ネガの人なのでは無いかと思う。

 

もう少し掘り下げると、ネガの人は基本的にそこまで頭が良くない。知識が豊富であったとしても、それを自分の経験値として受け入れられない。ましてや、収入に繋がるなど以ての外である。

と言ったように、何かのジャンルに精通しており、博識であるからという事が、頭が良いとされるのは間違いなのではないかと思う。

そこから派生した見方や考え方…考察は頭の良い一つの例であると思う。

考察から更に幅広く、蜘蛛の巣を作るように計画や目標や転換を行なっていく事で、今まで自分に向いていた自分の視線。ましてやそれがネガであったなら、生命に危機を及ぼした人も少なくないだろう。

 

その視線をコントロールするのである。外に向ける事で、ネガからの脱却を図る。

 

 

正直、ネガである事に一つの満足を得ている人は、精神疾患を患っている人には多いのではないかと思う。

ここの根本的な解決やその糸口は私にはまだ見えていない。

自分の思う、自分ができる限界まで、自分のやりたい事をやりきってしまう。

これしかないのではないかと思う。

 

夜は危険だ、自身も他人も。