現代の心の病とは

なんて大げさなタイトルを付けたけど

そんなに偉そうな事言える立場でもなければ考えがある訳でも無いです。独り言ですわ。

 

病識って言葉を大学の時に習いました。

社会からは、甘えって言葉を習いました。

 

この二つを自分の中で処理すると、甘えに軍配が上がります。自分の状況、立場、行動、思考。その全てが甘えであると。

なのに、どうもこうも止められない。自分としては◯◯障害、◯◯病と付く事は一つの防壁を作ってくれる大事な役目であると思います。

これは価値観によって大きく見解が異なると思います。あくまで私の見解であるに過ぎないです。

大雑把にまとめて良いのかは分かりませんが、ひねくれ者にはもってこいの証明であると思います。昨日書いた、盾の様な役割を果たしてくれます。

どうしたって、何がひっくり返っても取り払えない気持ちのモヤモヤは、振り返りの中で正当化を持ってして塗り替える事で、ここまで自分も誤魔化したのだから、その分起きたその出来事や気持ちに向き合おうと決心するのでは無いでしょうか。又は、もうあの事には一切合切触れないと、箱の中にしまおうと決心する。

つまりは、極端な行動に踏み切れるという事。

 

そういった、足し引き繰り返しながら辛い事も苦しい事も立ち向かって、明日の為に休んで

そうしていられる事がその時は苦痛に感じても、先を見られるか見られないか。

ここが、その人の精神力なのかなぁと思います。私は弱かった。その過程がどうであろうと、耐えきれなかった。耐えて耐えて耐え続けようと、思っても耐えられなかったのです。

 

しかし、自分に限ってそんな事は、こんな事は起こらないだろう。この様な考えは過ぎる事はありませんでした。

弱い自分にも、それよりも弱い誰かが今闘っているんだと考えた時に、私はその人になってみたいと思うのです。

覚悟も何も足りないです。実際なってみると恐ろしくもなり、それこそ生きることに耐えられないかもしれません。

しかし、その怯えた心で先入観で否定してしまう自分が何より情けないと思います。

今の自分の立場で出来ることを考えるにも、実際に対面し、対話する事すら出来なければ

必要な物も欲しがっているものも与えられません。しかし、その過程を飛ばして分からないとしても許されているのが現実なんだなぁとも思います。

 

色んな考えや人、思想や団体や発想。その全てに翻弄されながら、ドロップアウトし、また社会に戻る事の大変さ。そしてこんな苦労するならいっそ生きる事を放棄したいと思う気持ち。

タイミングは自分で選べる時があると感じられる様に、選べない時も当然あるのだと。

つまらない位、夢を見られません。

今日もきっと、逃避のために腕を切ります。