抑えられない事を何の所為にしている?

抑えている気持ちを解放してやる事で、一つ一つ自分を許していく。

そんな過程を築く事は果たして重要でしょうか。

抑えてきたから壊れてしまった。と思う事は簡単だ。許す事に抵抗があったとしても、一度許せばその快感を覚えてしまうから

何度と許して、言わば甘やかす事に繋がるのではないでしょうか。

 

その様な疑問や不安が、たくさん浮かび上がってくる中で、全ては結果を見てからじゃないと判断が出来なくて

ぐちゃぐちゃになってる思考をリセットしたくて、食べ吐きに走ってしまったり、根性焼きアームカットもします。痛みと苦しみが告げてくれる。お前は余計な事を考え過ぎなんだ、目の前の課題に集中し、切り替えろ。と

 

時折、こんな事をしておいて何様のつもりなのか…虚しくなり罪悪感に苛まれます。

ごめんなさいと思い口に出す時もあります。

涙は自分を許している。と聞いた事があるが、自分に対し同情しても流す涙は持ち合わせていないです。泣いたら何かが変わるのかもしれないと期待している一方で、自分勝手におかしくなった自分に流していい涙があるもんか。とにかく自分が憎くて仕方がないです。

 

人は等しく価値のある存在なのでしょうか。

価値のある人間と値踏みをされる事があるならば、価値がない人間がいると裏付けている事に相違ないのでは。

 

一言で片付けるならば、本当に自分はクズです。表立っていない分余計にクズであると思います。

私と同じ様に考えている人がいるかどうかは分かりませんが、受動的な発想で動く人はクズが多い気がします。

後にある責任に対して、覚悟を持つのではなく保障を探す。前向き後ろ向きって言葉がシンプルで伝わりやすいですね。

 

立ち向かう前から、保障を探して誘導尋問まで練り上げる人はクズ界のトップスターですね。

それを本業に仕事して欲しい位才能溢れていると思います。

自分はクズの中のクズであるが、秀でた部分も目立つ部分もない、暗い中で大きくなってるクズですね。

人を利用し得を手にする。その過程の中でここまでやったら畜生のそれだ。とプライド掲げる人は、殻を破ってクズのどん底トンネル潜りましょう。その先に見えるもの見てみましょうよ。

 

話が屈折していたかもしれません。

クズであると自覚しながら、これからも生きていくんですかね。行動も出来なくなればもう自分に出来る事のカテゴリーが少な過ぎて

欲求は満たす植物人間まで直下降ですね。

 

傷の舐め合いでもいいです。どこかで、クズにしか与えない仕事でも確立されれば…それとも自分達の手で作り上げるか。

社会復帰が目的でしょうか…否。クズの正当化、言わばそれこそ存在証明ですね。

 

綺麗事言える程綺麗な人が、そこら中でキラキラしていますね。今日も明日も。